昭和44年05月11日 朝の御理解



 御理解 第84節
 「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」

 一年勝り代勝りという事を言われますが一年勝り、代勝り。そういうおかげ次第に踏み広げて通る。去年よりも今年というように、おかげが広っ、末広がりに広がっていくのでなければ繁盛ではないと。一遍にパーッとこう桜の花が咲いた様におかげを受けて、それをまたパーッと散ってしまう様なものでは、それは繁盛じゃない。まあ合楽の信心を、本当こう、ここ20年余りの信心を見てみますと。
 確かに一年一年、おかげを受けて来ておる様に思います。去年よりも今年と言う様に、だから今年よりもまた来年が楽しみと言うような事になっておるのでございます。ね、来年はまた次の年が楽しい。そういうですね私は信心の基礎と言うか、そういうおかげの頂けれる元と言うか、またここを握っておれば、ここを頂いておればそういうおかげが頂けれるというですね、確固たるものを一つ、頂いておかなければならん。
 それにはどうでも一つ、おごりがましい事をすな、物は細うても長く続かねばとこう仰る。おごりがましいという事、ね。そう言う様なその心というものを、もう金輪際私の心から祓うて行くと無くなって行く。ここでも随分色々おかげを頂いて来た方達があります。けれどもその丼がある。丼というのはあの浮いたり沈んだりである。はあおかげ頂いたなって言いよると、それがまた元に戻ってしまっておる。
 少しおかげを頂いたと思うと、すぐその、言うならばおごりがましい心が出るんです。ね、第一すぐ着物が、衣装が良うなる、すぐ食べ物から変わる。今まで晩酌しよらなかった人が、晩酌どもやるようになる。危ないな危ないなと思いよると、一年ぐらいしとると、また元にひっくり返ってしまうという、いわゆる丼が多いのです。やはりその調子付き過ぎるんですね。
 そこで、そう言う様なおかげを頂かせて頂くという事は、必ず道に草を生やすような事になる。ね。道に草を生やすなとこう、生やすような事をすなと。そこでそのまあ言うなら難儀が、難儀の中にです、信心の喜びをしみじみと味あわせてもらい、しみじみと頂いて行きながら、日々生業の中に神様のおかげを噛み締め、噛み締め信心が肥えてくる。信心が次第に有り難いものになってくる。で、
 そういう例えば苦難時代と言った様な時に、もうしみじみです、私はそのおかげを頂かなければいけん。まあそれを信心のまあ生活のひとこまの中から、まあ拾うて見ますね、私の信心で。それはどんなに苦難の時代でありましても、いわゆる御祈念をして休ませてもらう。家内といわゆる寝物語にお話をする事は、どんなに考えてもお母さんおかげだねって。どんなに考えても神様のお働きと思わにゃおられんね。
 これは私の一番言うなら苦難時代でもこの話だけは、いつも毎晩のようでした。どんなに考えても神様のおかげと言わにゃおられん、思わにゃおられん。それが何か現在のようにおかげを頂いておるという時ではない時。そういう信心の基礎がですね、私は固まって行きよった時だと自分で思います。あぁあ、と言ったようなものがないんです。どんなに例えば厳しい修行の中にあっても、ね。
 どんなに考えてもお母さん、おかげばい。本当におかげ頂いておるなと、本当にそうですなと、例えば夫婦の者がね、そういうしみじみとした信心の有り難さを自分の心の中に頂き、染み込んで私は行く。そこんところに基礎が固まっていくと。苦しい、苦しいと。本当にもう、ある人はここで、もう本当に先生、死んだ方がマシち思いますち、こげん苦しまにゃならん。
 そういう苦しい中を通っておりながら、おかげを頂いてどうやら、こうやらおかげを頂いてくると、もう信心が薄うなってくる。ね、もう苦しゅうてたまらんとか、難儀だとか、早うここから脱皮したい、早くここから抜け出たいというので、苦しいから一生懸命神様へすがって、段々おかげを頂いて来たおかげはね、もろいです。苦しい中から助けてもらって、だからその、その苦しいと言う難儀な中にです。
 本当に神様の、おかげをしみじみ噛み締められる信心を、こそ頂いておかなければね、そういう信心の基礎という物がなからなければね、私は必ず道に草を生やすような事をすると思う。どうでも一つ本気での信心を頂かせてもらわにゃいけんと。んなら例えば、どんなに考えても、おかげだなという事は、それは今も昔も、同じ事です。そしてただ、なら現在の、現在の場合はです、ね、
 それがもう本当にまあ一見致しますとです、まっ他所の人が見ますとです、または色眼鏡で見る人達が見るとですよ、本当に合楽は贅沢だと言うほどにです、見れれるほどのおかげを頂いておるから、尚更有り難いという事になって来るのです。昨夜もお月次祭が終わりましてから、裏の方から呼びに来ました。今度豊美の結婚式に当たって色んな予算が組まれておる。その予算の中に私と家内の式服が入っております。
 神様にお願いさせて頂いて、私共は布一寸買わないという建前なんですけれども、やはりこの合楽教会というその、まっ、教会長である私、家内、夫妻です、の例えば、が、ね。これは一つの式服、これはね、お祭を奉仕するのにはどうしても装束を作らなければならん。その装束と同じだという意味の事を頂いて、私共も決断致しましてね。それでは一つこの際、おかげ頂こう。
 折角おかげを頂くならばおかしくない、それと言うてもやはり身分相応というのがあるから、まあいわゆるおごりがましい事にならんように、おごりがましくならん様にという願いを、まあ持っておる訳でございます。昨日私の袴が参っておりました袴の生地が。せんだいひろの袴驚きますね。二十万円から致します袴の生地が。色々来ておりました中に私は所がその20万も15万もと言うのはですね。
 どうも私が履けそうにない感じなんです。ただ値段が高いというだけじゃいかんですね。その一番安いと言うてもやっぱ4~5万はするそうですけれども。亀甲柄のまあ渋い感じの袴にまっ決定いたしました。考えて見ますと5万もする袴を履く、言うなら柄でもないのでございますけれどもです。そこにはこう何かね、もう神様が定めておって下さるといったようなものを感じるものがあるのです。ね。
 その何点の中ではそれは一番安い、安いから高いからと言うて決めたのじゃないけれどもです。秋永先生もお決めになるなら、是が良いですと言うて下さるし、私もそれが良いと言うたから、結局なら値段を開いて見た所がそれが一番安い。それでも矢張り5万もすると言う様なものであった。羽織の裏が来ておった、羽織の裏でも矢張り5万からする、羽織の裏だけが。それでもうもっとあれ高いのだったでしょうかね。
 けれどもそれは一番高いのに決めた。ね。袴の亀甲柄という物はこれはまあ、私にまっその何点の中で一番安いのが私のに一番こう吊り合うとるという感じもしたし、まあなら色合いから絵柄から言うてもそれが良かったし。着物の裏になって来ると私が一番良いのを気張っとこうとこう。品物は同じなんです。皆その手書きなんですよね、有名な先生方が書いた絵がその、裏に書いてある訳です。
 ところがどうして私がですね、この一番高い、一番上等のに決めたかっと言うとですね、富士山が搾り出してある。しかも下には沢山の行者風な人達がですね、あの富士山昔からあの富士山に登る、何か巧者のようなものがあってですね、そのいわゆる行者風の出達をしてこう、まあちょうどへんじょうこんごうのような格好をしてですね、あの山登りと言うですかね、の人達が沢山下からその富士山に向かって、登って行きよるという図柄でのそれであった。
 だからそれは絵が良いとか、値段が高いとかという事ではなくてです。これはまあ私が信心の理想とする絵柄ですから。ああその図柄がですね。でしたからこれは私の贅沢とか私の心ではなくてです、神様がいつもこれが信心の理想であると。もう一枚にとっても良いのがあった。それは鵜飼の絵がついておった。これは素晴らしいこれも私の信心。けれども、私はそこんところは、もう卒業したという感じであった、ね。
 例えばですね、私共がおごりがましい事をすな、物は細うてもと。おごりがましいという事の所にまず焦点をおいてです。それでも神様がねここまでは許されてある、いや是をと言う様な物をそこから、こう感じて頂いて行くという生き方です、ね。ですからねそれがその辺が実を言うたら難しい所なんです。けれどもその自分の情というものがその事に一つもないと。例えばならその絵は、羽織の裏の事でもです。
 自分の好みとかそういう物ではなくてです、ね。対象が信心である、当て目当てが信心である。一つの鵜飼にすればうんと値段は安い、それも矢張り手書き品物は同じぐらいけれども、私の願いとするところの物はこれなんです。これは私の信心の願いである。鵜飼の方は私がもう自分で、これは卒業しておるように思うね。鵜の鳥になれとこう仰る。一生懸命働かせてもらうとね。そして鵜匠に任せてある一生懸命働く。
 そすと折角言うならば、働いて取り貯めた魚をみんな吐き出してしまう。吐き出してしまうと後はまたその鵜を買っておる主人、いわゆる鵜匠がそれにその鵜の鳥に適当な量と、適当な魚をちゃんと与えて下さる。私共はその鵜匠の様な生き方になれば、もう絶対間違いのないおかげが受けられるのです。ほらあもうどんどん取ってから食べ過ぎて、もうおなかはこう大きゅうなって、ね。
 大きいならいいけど、まあ結局腸満のごつなって苦しまなきゃならん。いわゆる儲け出して苦しまなきゃならんと言うのはそれです。ね、けれども私共の場合は何時でもこれが空っぽなんです。所謂いつもが全てが神様の御物ぞという頂き方なんです。ね、鵜匠が神様なら私共が一生懸命、これ全部絞り出して下さる。その代りに神様が適当な物を与えて下さる。その適当な物を与えて下さるという事が。
 愈々の場合は私はその亀甲柄の袴でありまたは富士山のいわゆる図柄の羽織の裏であると私は分からせて貰った。だから後ろの絵の所はもう卒業しとるから、これから私の理想とする所の物。そういういわば頂いて行く生き方頂き方。私はね例えばなら品物なら品物を買いましょう、もう身につきましょうそれがね、その為に苦しまねば成らない様な事は、これは許されないと思うです。自分の身につけるものでも、ね。
 それが例えば生活に響くような事であっては、それは許されていない証拠だと思うです。例えば申しますと私、ね、ここ2~3ヶ月係りで、この入れ歯が出来ました。もうとにかく、最高のでして下さいという事でございました。菊栄会の方達が皆参りましたから、もう念には念を入れ、最高の技術と最高の材料を使ってして下さい、た訳でございます。けれども、やっぱ私もちょっと驚きました。
 20万4千500円じゃった。それからその翌々日でしたか。お礼に参りました時には本当に気の毒。私は行き出さん?んとですがね正義さんがいきなさった?」。本当にああいう先生には言いにくいですから、貴方からどうぞ言うて下さいち言うて。金の入れ歯の方を一本その目録の中に落としちゃったげな。もう8千円かかりますと言われたって言うの。ですからどうですかね21万なんぼになった訳です。驚く驚く。
 その前の日に私は鳥栖の上野が全部入れ歯ばしてあるとば聞きましたらですね、やっぱ2~3ヶ月掛かったそうですが、千八百円じゃったげな。私のは20万かかった。例えば、なら千八百円が二千円でもですよ、ね、支払いにです、支払いに事欠くような、無理が行くようなのならば、まだ贅沢ですよ、ね。けれどもそれが20万が、30万かかってもです、支払いに私は事欠くがないなら、無理が行かないならそれは決して、おごりがましいという事じゃないと私は思うんです。
 それでもやはり私共の場合はこうして神様の御まかないを頂いておりますから、その事がやはりまあ10万ぐらいは掛かるだろうと思うておって、神様にまあお願いさせて頂きよった。昨日一昨日。昨日一昨日でしたか。善導寺の久保山さん、お参りさして見えてから、先生、ここ2~3日、茂がずっとあの、今月の経理の方の御用をさせて頂いた。昨日は終日御用を頂いておりました。
 お母さん僕はもう驚いてしまうてこう言うんです、お母さんに。もうとにかく僕は数字の上でです、あまりにもキチッとした、ハッキリした神様を目の前に見せて頂くから、もうただ驚いてしまうて言うてお母さんに話したっち言う。それは何をその、物語る事かと。ね、ここで様々な、本当に例えばですよ、ここの内容を、実情を知らない人が見るとです、合楽は贅沢だと。
 ね、合楽はこの頃ちょっと舞い上がっとりゃせんだろうかと、おごりがましいこと風に見えるかも知れないけれども、肝心要の経理の面を御用頂いておる茂さんが、まあ茂さんから聞いた事じゃありません。いわゆる、お母さんが来てから、お母さんが茂の話を聞いてから、お母さん自身も、本当に有り難い事ねと言うてその、数字の上に現れて来るんです。その数字の一字一字がです、ね、
 神様のもうとにかく、どうにも出けん微妙な働きの中にです、ね、余りもしなければ、足りもせんと。足らん事もなからなきゃ余りもせんけれども、キチッとしたそのおかげの中にです、月々こうやっておかげを受けているという事の中に、それけん、合楽にどれだけの、いわゆる金入りがあったからと言うてもです、それが一つもくぼみになってないと。と言てその言われる、たと、言うてお届けをしております。ね、
 そこんところを私は、ちょっと見ながらです、いわゆるおごりがましい心が起こってはならないという事をいつも心に置いております。私が歯の治療を終わりましたその、翌々日でしたか。ある方がお願いに出て参りました。今度の度の親先生の歯の治療費というのは、いくらかかっても、私の、共がおかげを頂きたいと思いますから、おかげを頂かせてくれとこうおっしゃる。
 そういうおかげを何時の場合でも頂いておりますから、くぼみが出来るはずがない訳です。皆さん私は、おごりがましい事をすなと言うから、信心させて頂きゃね、良か着物も着られん、よか食べ物も食べられん、それじゃとても後に儲け出したっちゃ意味がないと言うのじゃないですよ。天地の親神様がね、天地の親神様が、ただ氏子の為にあらゆる食べ物でもし、いわば着物でもです、ね。
 衣食住すべての物がです、例えばどういう贅沢なと思われるような物でも、作って置いてくださるという事はです、やっぱり与えたいばっかりなんです。だからそれが有り難く頂けれるおかげを受けてくれよと言うのが神様の願いなんです。それを頂かなかったら神様へむしろ寂しい思いをさせるぐらいな事です。けれどもねそれを身に付けたり、頂いたりする事によって苦しいような、借金になるような、そういう事を私は今日はおごりがましいとこう皆さんに。これは経済だけの事じゃありません。
 心の上においてもそうです。ね、おごり高ぶるという心、ね。それでは必ず道に草を生やすような結果になる。ここなら合楽が20年間の歴史を持っておりますから、その20年間のことをジーッと思うて見ますと、ね。それこそ細々とした所から段々、段々踏み広げて今日になって来ておる。しかもそれが一年勝りにおかげを受けて来ておると。合楽の場合には丼がなかったと思うのです。
 あの年はあげん繁盛じゃったばってん、その次の年はストッと落ちとったという事がなかった。去年よりも今年というようにです、おかげを受けてきた。だから来年はまた、今年よりももっと、おかげが受けられるだろうという楽しみがある。ならそのその下の方にはです、底の方にはどういう信心がなされておるかと言うとです、おごりがましい事をすな、道に草を生やすような事をしてはならないという、一生懸命な信心。
 その基礎になっておる物はです、私共が、まあ言うならば大変な難儀な中にあって、夫婦の者が話し合った事、いわゆる。これは毎晩のように同じ事を言いながら、同じ有り難い日々を送らせて頂いたという事は、それがもう自然と出てくるんです、一日を締めくくってしもうて。本当にどんなに考えても、お母さんおかげばい。どんなに考えても神様のお守りを頂いておる証拠ばいと、例えば言わなければおられなかった。
 家内も本当にそうですなあという事であった。ね、どういう難儀な中にあっても、神様のおかげを実感して来たという事。それがいわば基本基礎になっておる。苦しい早うここんところをおかげ頂きたい。難儀だとそこん所から早く一つ脱皮したい。はあもうほんにこげん苦しい事はない、死んだ方がマシと言いながらですもう死なんで済むごたるおかげを頂いたのではです、必ず道に草を生やすような事の結果になるです。
 もうそれはいくらもあるですここでは。それこそ死んだ方がマシというごたる中にあってもです、神様のこのようなお働きの中にあって、どんなに考えてもおかげだねって、こう言えれるものをです、その時に頂いておかなければならない。頂いたにしましても、ね、私共の分相応とでも申しましょうか、信心なりとも申しましょうか。ね、おごりがましい心の上にも形の上にも事があってはならない。
 けれども例えば現在合楽のように、この様におかげをいわば頂き過ぎるほどに頂いておりますとです、ね、どうしてもおごりがましい様な物ではなかろうかと自分で、もう猛反省をして行きよらんと、やはりやり損なうということ。そこで私はそのところへ定規を押し当て押し当て例えば昨日、私の袴一つ作らせて頂くという事の上に置いてもです。ね、羽織の裏を一つ買わせて頂くという事におきましてもです。
 そういう例えて言うならば、間違いがない答えを出しながら、進めて行くという生き方を今日は聞いて頂いた訳ですね。細い道でも踏み広げて通るのでなからなければ繁盛ではない。ね、細うても長う続かなければそれは繁盛ではない。一生懸命に信心をさせてもらうとおかげを頂く。おかげを頂くとまたおかげを落としてから、またお願いにくる。ね、こういう信心がですそれは一生続いても、それではおかげにならんです。
 繁盛に繋がらないです。どうぞ一つ本当の繁盛に繋がる一年勝り、代勝りにおかげを頂いて来たから、ね。いや今年はもうこんなにおかげを頂いたが、来年はもっとおかげが頂けれるんだと希望の湧くような信心。それにはです今窮屈なら窮屈の所を本気でお通りなさいませ皆さん。ね、窮屈なところをですね、借金してでも楽になろうてなんてんていう考えを捨てなきゃいけません、ね。
 これこれより以上の物は頂こうと思いませんと、ね。これより楽をしようとは思いません。もうぎりぎりのです、ね、自分の現在の与えられておる、その、例えば千円なら千円を与えられておるなら、千円の中でです、もう本当に窮屈だろうけれども、その中で十分有り難い物を味あえれるおかげを頂きなさいませ。そのおかげを味合わなければ、次のおかげに飛躍しない。
 早うこの千円から二千円になりたい、と言う様な考え方では駄目。その千円の中にです必ず喜びがある。そこで立ちゆく道があるて。だからそこんところが十分に草をとる事が出来るんだと。そしてです、これ以上の物は求めませんという、そこからです与えずばおかんという働きが始まった時に、初めて合掌して受けて行きゃいい。そして千円が二千円になる時にはもうその二千円の中がまた、それこそ道に草を生やすようなもう隅から隅まできれいにする事が出来る。
 それが一年勝り、代勝りに大きくなって行くという物じゃなからなければいけません。皆さんが自分の家庭というものをもう一遍振り返ってみて、自分にはちったこれは過ぎてはおらんだろうかと思うならね、もうそれ以上の事からに手を出そう、足を出そうと思いなさらずにです、ね。その中でもう本気でその中に有り難いものを頂かせてもろうて、どんなに考えても、窮屈な、窮屈なけれども、このような有り難いという物をまず頂いて行かなければです、必ず道に草を生やすような結果になる、ね。
 私が愛子さんに何時も言います。もう愈々この十三日御本部へ入学の為に参ります。もう色々準備をいたして様々な準備をいたしますから、兄弟また信者さん方色々心使うて下さっておられますね。アンタは御本部にはね修行に行くとばいて。だからこげな物ば身につけとかんなん、こげな物ば必要てんなんて聞く事はでけんて私が。もう最小限度ね。そこから与えられる物そこから身について来る物を。
 頂いていく事でなからなければならん。身にも付いていない物を自分で身につけようとするところに、問題が出けてくる。ぎりぎりそこんところの修行をしげ行くとだと言うて、まあおりますけれどもね。お互いもそうでなかなきゃならんとこう思うのです、ね。そして私は今日の84節の中からねいよいよ、ね、この生き方で行けば、ね、いわゆる年々歳々、おかげが受けて行けれる。
 丼のないおかげを受けたり、落としたりのない。ね、必ず末広に広がって行く、ね、道が広がって行くという確信または楽しみ。来年は今年よりもおかげが頂けるぞと、この調子で行けばと言うですね、私はその確固たる信念の持てれる信心をね、頂いておかなければならんという風に思います。おごりがましい事をすな物は細うても長う続かねば繁盛ではないぞと。ね、細い道でも次第に踏み広げて通るのが繁盛じゃと。
 道に草を生やすような事をすな。それを、例えば合楽のこの20年になります合楽の生き方というものをです、ね、こう踏み広げて通って来ておる合楽の姿というものを皆さんが御覧になって、ね、そして私の、来年は今年よりも、もっと広がるぞと、私が信念しておかげを頂いておるようなものをです、皆さんの家庭の上にも、ひとつ頂いてもらいたい。丼のないおかげを頂いてもらいたい。頂いたり落としたりと行ったような事のないおかげを頂くためにいよいよ信心の、いわゆるほぞを固めて、ね。
 現在の難儀、現在の窮屈のその中に、はあ苦しい、苦しいでおかげ頂いたぶんじゃ駄目だ。その苦しい中にです、ね、必ずおかげがある。例えて言うならば、ね、私がいつも例を申しますように、ね、五尺なら五尺の綱に繋がれておる鶏のようなもんだと。それをね、向こうの方へ行った、たくさん餌があるように思うて一生懸命引っ張るから苦しいんだと。五尺の綱が付けられておりゃ、五尺四方は自分の世界だ。
 その五尺四方の中にですね、その鶏が一匹立ち行くようなおかげっていう物はちゃあんとそこにあるんだと足元に。それをここにはないごと思うて向こうの方へばかり行こうとする。それでおかげを頂いてもですそれではほんなこっじゃない。ね、自分が現在窮屈なら、その窮屈な中に喜びの湧く所までは、どうでも信心を分からせて貰うわなければ、それが基本に、基礎にならなければいけないという事ですよね、
   どうぞ。